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婚礼から三ヶ月。
蘭珠(らんじゅ)はようやく、自分は幸せになれるのだと信じかけていた。朝、目を覚ますと、すぐそばに景炎(けいえん)の横顔がある。
「……あ」
思わず小さく声が漏れた。
金の刺繍を施した寝衣の襟元から、すっと伸びた喉と整った顎のラインがのぞく。(本当に、皇太子様が私の夫なんだ……)
いまだに、ときどき信じられなくなる。
瑞華一の名家・花家の次女として生まれた蘭珠は、姉より目立たぬようにと育てられてきた。 派手ではない。けれど読み書きと琴を好み、物静かで、よく人を見ている――そんな娘。その彼女が、今は皇太子・景炎の枕元で、腕の中に閉じ込められている。
「……起きたのか、蘭珠」
低い声が耳元で囁いた。
景炎が目を開け、細めた金の瞳が、すぐに彼女を捉える。「申し訳ございません、殿下。起こしてしまいましたか」
「起こされたなら、こうして抱きしめ直せばいいだけだ」
ぐっと腕の力が強くなり、蘭珠は胸板に押し付けられる。
彼の体温と、ほのかに香る白檀の匂いに、心臓が跳ねた。「……殿下、朝から、その……」
「夫婦なのだから、当たり前だろう?」
さらりと言われて、顔が一気に熱くなる。
景炎は宮中で「冷徹な皇太子」と囁かれている。
血も涙もない、次期皇帝にふさわしい男だと。けれど、ふたりきりの時だけは違う。
蘭珠の髪をほどき、指先で梳きながら、眠そうに笑う。「今日は少し時間がある。もう少しだけこうしていよう」
「でも、朝議が……」
「多少遅れても構わん。父上には『嫁に甘やかされて起きられませんでした』と言っておけばいい」
「それは逆では……」
思わず突っ込むと、景炎は喉を鳴らして笑った。
こういう時、彼は年相応の青年に見える。
鋭い眼差しも、残酷とさえ噂される口元も、今はただ、蘭珠だけを甘やかす存在だ。(ずっと、こんな日々が続けばいいのに)
胸の奥で、ふとそんな願いが浮かぶ。
同時に、気づかないふりをしている不安も、薄く疼いた。ここしばらく、宮中では落ち着かぬ噂が飛び交っている。
北の隣国との緊張が高まり、国境での小競り合いが続いている、と。「殿下」
蘭珠は、そっと顔を上げた。
「本当に、大丈夫なのでしょうか。北境のこと……」
景炎の笑みが、わずかに翳る。
「耳が早いな。内々の話のはずだが」
「女官たちは口が軽うございますから」
「ふむ。……大丈夫だ、と言えば安心するか?」
問い返され、蘭珠は少しだけ迷ってから、正直に首を振った。
「正直を言えば、不安です。陛下がご出陣なさるのか、それとも……」
「行くのは、俺だ」
短く告げられて、心臓が冷たくなる。
「殿下が……?」
「北境は、次の皇帝がどう動くかを測られる場だ。俺自身が行くしかない」
淡々とした声音。
それが、かえって本気であることを告げていた。「危険では……」
「危険だからこそ、俺が行く。俺が勝つと知れば、敵も余計な火種を撒けなくなる」
理屈は分かる。
分かるのに、喉が詰まって言葉にならない。景炎が、蘭珠の頬に手を添えた。
「そんな顔をするな」
「でも……」
「お前を置いていくのが、一番名残惜しいというのに」
軽く唇を重ねられて、蘭珠は目を閉じた。
いつもより、少しだけ長い口づけ。離れたあと、景炎は彼女の額に唇を押し当て、小さく息を吐く。
「すぐに戻る。勝利を手土産にな」
「……本当に、戻ってきてくださいますか」
「約束する。花家の蘭珠。俺の妃。――世にひとりしかいない俺の妻だ」
静かな言葉に、胸がじんわりと温かくなる。
(信じていていいのよね)
蘭珠はこくりとうなずいた。
「では、私はここでお待ちしております。殿下が、お怪我なくお戻りになることを、毎日祈ります」
「祈るだけでは足りん。帰ってきた俺を、これまで以上に甘やかすと約束しろ」
「……殿下まで北境の噂の兵たちのようなことを」
「兵たちは何と言っている?」
「武功を立てて戻ったら、妻に酒を注いでもらうのだと、自慢していました」
「ならば俺は、妃の手料理を所望しよう」
「手料理、でございますか?」
思わず聞き返すと、景炎は真顔で頷いた。
「できるか?」
「……が、頑張ります」
料理など、ろくにしたことがない。
だが、「できません」とは言いたくなかった。景炎が立ち上がる。
寝台の端に腰掛け、靴を履きながら、ふと振り返った。「それと、蘭珠」
「はい」
「体調は、どうだ」
「体調……?」
唐突な問いに、蘭珠は瞬きをする。
言われてみれば、ここ数日、朝になると少しだけ気分が悪い。
匂いに敏感になった気もするし、以前よりも疲れやすい。「少し、疲れやすいような気はいたしますが……」
「医師を呼ぼう」
「大袈裟でございますよ。きっと、夜更かしが過ぎたせいです」
「誰のせいだと思っている」
景炎が、わずかに口角を上げる。
「……殿下の、せいでしょうか」
ぽつりと呟くと、彼は満足そうに目を細めた。
「ならば責任を取らねばな」
そのやりとりが、妙にこそばゆくて、蘭珠は笑ってしまった。
まさか――この時、すでに彼女の腹に、新しい命が宿っていたことも。
その命が、後に帝都を揺るがす争いの火種となることも。そして、北の空の向こうで、ひとりの女が静かに笑っていることも、まだ知らなかった。
敵国の王子の愛妾でありながら、
その美貌ひとつで戦の行方を左右し、「傾国の美女」と呼ばれる女――雪瓔の存在を。蘭珠がそれを知るのは、景炎が北へと旅立ったずっと後のことになる。
夜更けの回廊は冷え切っていた。蘭珠はその中を、ひとり震えながら歩いていた。産むべき子を抱えた腹を、そっと両手で包み込む。景炎が出陣してから、宮中は目に見えて変わった。侍女たちは蘭珠を避けるようになり、妃仲間も距離を置く。理由はわからない。ただ——景炎が書き送ってきた文が、ぱたりと途絶えた。「何かあったの……?」胸の奥で不安が揺れる。あれほど深く求められ、愛され、「必ず戻る」と誓いさえ交わしたのに。蘭珠は壁に手を添え、深く吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺し、胸が締め付けられる。そんな彼女のもとへ、小走りの影が近づく。「蘭珠様、戻られましたか……!」若い侍女・梅香が、顔を青くして頭を下げた。「どうしたの?」「さきほど……皇太子殿下からの伝令が戻りまして」「景炎から!?」思わず声が上ずる。しかし、梅香の唇は震えていた。「……殿下は、勝利を収められました。ですが同時に……“雪瓔(せつえい)”という美女を連れ帰られたとのことです」「雪瓔……?」聞いたことのない名。けれどどこか、冷たい音の響きがした。「敵国の王子の側妾だったそうです。戦場で殿下の命を救い、その知略で勝利にも貢献したと……」——まるで、物語に出てくる傾国の美女。ひとりの女の微笑みが、国を傾ける。蘭珠は胸を押さえた。不安が、ひたひたと足元から満ちていく。「景炎は……無事なのね?」「はい。ただ……お、お姿に変化が……」梅香は言いにくそうに口ごもった。「変化?」「殿下は、まるで別人のように冷たく……雪瓔という女の傍を離れられないとか……」蘭珠の心臓が一瞬止まったように感じた。景炎が他の女から離れない?あり得ない。そんなこと——「梅香。その噂は……本当なの?」侍女の目が揺れ、涙が滲む。「……はい。皆、そのように」音もなく、蘭珠の世界にひびが入った。——景炎が、私以外の女のそばに。「帰りましょう、蘭珠様。お部屋は……まだ温かくしてありますから」「……ええ」蘭珠は歩きはじめた。だが一歩ごとに、胸の奥が軋む。景炎が愛してくれたのは、私ではなかったのだろうか。あの日々は、夢だったのだろうか。いや。あの瞳は嘘じゃなかった。自分を抱きしめた温度も、優しい囁きも、本物だったはず。(もし……誰かが景炎を操っているのだとしたら?)雪瓔
「……本当に、行ってしまわれるのですか」障子越しに差し込む朝の光が、白い帳を淡く透かしていた。寝台の上で身を起こした蘭珠は、自分の声が震えているのを自覚する。部屋の中央で甲冑を締め直していた景炎が、手を止めて振り向いた。漆黒の髪を高く結い上げ、その上から金の冠を載せている。いつもより厳しい横顔。それでも、蘭珠を見ると、ふっと表情が和らいだ。「行かねばならぬ」短く告げられた言葉は冷たく聞こえて、けれど、その瞳には迷いが滲んでいた。蘭珠は掛け布を握りしめたまま、そっとお腹に手を添える。まだ膨らみと呼ぶにはほど遠い。だが、医官は確かに言った。――ご懐妊、おめでとうございます。あの瞬間、世界の色が変わった気がした。景炎は椅子を蹴るように立ち上がり、子どものように目を丸くしていた。『本当か? 本当に、余の子か?』『当たり前ですわ、殿下』頬を赤くして返すと、彼は笑って、笑って、何度も蘭珠を抱きしめた。あれほど感情をあらわにする人なのだと、その日初めて知った。――なのに。「敵は、そう遠くはないと言っておりましたのに。父上に別の将を向かわせていただくことは……」言いかけると、景炎は首を横に振った。「皇太子である余が、最前線に立たねば、兵がついてこん」「ですが……」「大丈夫だ」景炎はゆっくりと歩み寄り、寝台の縁に片膝をついた。甲冑の金具が小さく音を立てる。「余は戦に出向くが、勝つために行くのだ。死にに行くのではない」その手が伸び、蘭珠の頬を包む。温かい。冷たい鉄の匂いと、いつもの沈香の香りがまじりあって、涙腺がきゅっと痛くなる。「泣くな、蘭珠」「泣いておりませんわ」そう言いながら、視界が滲む。情けない。泣きたくないのに、体のほうが勝手に震えてしまう。「……泣いておる」景炎が苦笑する。その親指が、溢れた涙をぬぐった。「余は必ず戻る。お前と、この腹の子のところへ」彼の視線が、蘭珠の手元――お腹へと移る。蘭珠もそっと手をどける。まだ平らな腹を、景炎の大きな手が慎重になぞるように撫でた。「ここに……余の、子が」まるで信じられないと言わんばかりに、低く呟く。戦場では命を奪い、政においては冷静に人を切り捨ててきた男が、今は何よりも脆いものを前にしている。「殿下」「……景炎だと言っただろう」「こ、こんな朝にまで
婚礼から三ヶ月。蘭珠(らんじゅ)はようやく、自分は幸せになれるのだと信じかけていた。朝、目を覚ますと、すぐそばに景炎(けいえん)の横顔がある。「……あ」思わず小さく声が漏れた。金の刺繍を施した寝衣の襟元から、すっと伸びた喉と整った顎のラインがのぞく。(本当に、皇太子様が私の夫なんだ……)いまだに、ときどき信じられなくなる。瑞華一の名家・花家の次女として生まれた蘭珠は、姉より目立たぬようにと育てられてきた。派手ではない。けれど読み書きと琴を好み、物静かで、よく人を見ている――そんな娘。その彼女が、今は皇太子・景炎の枕元で、腕の中に閉じ込められている。「……起きたのか、蘭珠」低い声が耳元で囁いた。景炎が目を開け、細めた金の瞳が、すぐに彼女を捉える。「申し訳ございません、殿下。起こしてしまいましたか」「起こされたなら、こうして抱きしめ直せばいいだけだ」ぐっと腕の力が強くなり、蘭珠は胸板に押し付けられる。彼の体温と、ほのかに香る白檀の匂いに、心臓が跳ねた。「……殿下、朝から、その……」「夫婦なのだから、当たり前だろう?」さらりと言われて、顔が一気に熱くなる。景炎は宮中で「冷徹な皇太子」と囁かれている。血も涙もない、次期皇帝にふさわしい男だと。けれど、ふたりきりの時だけは違う。蘭珠の髪をほどき、指先で梳きながら、眠そうに笑う。「今日は少し時間がある。もう少しだけこうしていよう」「でも、朝議が……」「多少遅れても構わん。父上には『嫁に甘やかされて起きられませんでした』と言っておけばいい」「それは逆では……」思わず突っ込むと、景炎は喉を鳴らして笑った。こういう時、彼は年相応の青年に見える。鋭い眼差しも、残酷とさえ噂される口元も、今はただ、蘭珠だけを甘やかす存在だ。(ずっと、こんな日々が続けばいいのに)胸の奥で、ふとそんな願いが浮かぶ。同時に、気づかないふりをしている不安も、薄く疼いた。ここしばらく、宮中では落ち着かぬ噂が飛び交っている。北の隣国との緊張が高まり、国境での小競り合いが続いている、と。「殿下」蘭珠は、そっと顔を上げた。「本当に、大丈夫なのでしょうか。北境のこと……」景炎の笑みが、わずかに翳る。「耳が早いな。内々の話のはずだが」「女官たちは口が軽うございますから」「ふむ。……大丈夫だ