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妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています
妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています
Auteur: 月歌

1. 蘭珠と景炎

Auteur: 月歌
last update Date de publication: 2025-12-19 20:22:53

婚礼から三ヶ月。

蘭珠(らんじゅ)はようやく、自分は幸せになれるのだと信じかけていた。

朝、目を覚ますと、すぐそばに景炎(けいえん)の横顔がある。

「……あ」

思わず小さく声が漏れた。

金の刺繍を施した寝衣の襟元から、すっと伸びた喉と整った顎のラインがのぞく。

(本当に、皇太子様が私の夫なんだ……)

いまだに、ときどき信じられなくなる。

瑞華一の名家・花家の次女として生まれた蘭珠は、姉より目立たぬようにと育てられてきた。

派手ではない。けれど読み書きと琴を好み、物静かで、よく人を見ている――そんな娘。

その彼女が、今は皇太子・景炎の枕元で、腕の中に閉じ込められている。

「……起きたのか、蘭珠」

低い声が耳元で囁いた。

景炎が目を開け、細めた金の瞳が、すぐに彼女を捉える。

「申し訳ございません、殿下。起こしてしまいましたか」

「起こされたなら、こうして抱きしめ直せばいいだけだ」

ぐっと腕の力が強くなり、蘭珠は胸板に押し付けられる。

彼の体温と、ほのかに香る白檀の匂いに、心臓が跳ねた。

「……殿下、朝から、その……」

「夫婦なのだから、当たり前だろう?」

さらりと言われて、顔が一気に熱くなる。

景炎は宮中で「冷徹な皇太子」と囁かれている。

血も涙もない、次期皇帝にふさわしい男だと。

けれど、ふたりきりの時だけは違う。

蘭珠の髪をほどき、指先で梳きながら、眠そうに笑う。

「今日は少し時間がある。もう少しだけこうしていよう」

「でも、朝議が……」

「多少遅れても構わん。父上には『嫁に甘やかされて起きられませんでした』と言っておけばいい」

「それは逆では……」

思わず突っ込むと、景炎は喉を鳴らして笑った。

こういう時、彼は年相応の青年に見える。

鋭い眼差しも、残酷とさえ噂される口元も、今はただ、蘭珠だけを甘やかす存在だ。

(ずっと、こんな日々が続けばいいのに)

胸の奥で、ふとそんな願いが浮かぶ。

同時に、気づかないふりをしている不安も、薄く疼いた。

ここしばらく、宮中では落ち着かぬ噂が飛び交っている。

北の隣国との緊張が高まり、国境での小競り合いが続いている、と。

「殿下」

蘭珠は、そっと顔を上げた。

「本当に、大丈夫なのでしょうか。北境のこと……」

景炎の笑みが、わずかに翳る。

「耳が早いな。内々の話のはずだが」

「女官たちは口が軽うございますから」

「ふむ。……大丈夫だ、と言えば安心するか?」

問い返され、蘭珠は少しだけ迷ってから、正直に首を振った。

「正直を言えば、不安です。陛下がご出陣なさるのか、それとも……」

「行くのは、俺だ」

短く告げられて、心臓が冷たくなる。

「殿下が……?」

「北境は、次の皇帝がどう動くかを測られる場だ。俺自身が行くしかない」

淡々とした声音。

それが、かえって本気であることを告げていた。

「危険では……」

「危険だからこそ、俺が行く。俺が勝つと知れば、敵も余計な火種を撒けなくなる」

理屈は分かる。

分かるのに、喉が詰まって言葉にならない。

景炎が、蘭珠の頬に手を添えた。

「そんな顔をするな」

「でも……」

「お前を置いていくのが、一番名残惜しいというのに」

軽く唇を重ねられて、蘭珠は目を閉じた。

いつもより、少しだけ長い口づけ。

離れたあと、景炎は彼女の額に唇を押し当て、小さく息を吐く。

「すぐに戻る。勝利を手土産にな」

「……本当に、戻ってきてくださいますか」

「約束する。花家の蘭珠。俺の妃。――世にひとりしかいない俺の妻だ」

静かな言葉に、胸がじんわりと温かくなる。

(信じていていいのよね)

蘭珠はこくりとうなずいた。

「では、私はここでお待ちしております。殿下が、お怪我なくお戻りになることを、毎日祈ります」

「祈るだけでは足りん。帰ってきた俺を、これまで以上に甘やかすと約束しろ」

「……殿下まで北境の噂の兵たちのようなことを」

「兵たちは何と言っている?」

「武功を立てて戻ったら、妻に酒を注いでもらうのだと、自慢していました」

「ならば俺は、妃の手料理を所望しよう」

「手料理、でございますか?」

思わず聞き返すと、景炎は真顔で頷いた。

「できるか?」

「……が、頑張ります」

料理など、ろくにしたことがない。

だが、「できません」とは言いたくなかった。

景炎が立ち上がる。

寝台の端に腰掛け、靴を履きながら、ふと振り返った。

「それと、蘭珠」

「はい」

「体調は、どうだ」

「体調……?」

唐突な問いに、蘭珠は瞬きをする。

言われてみれば、ここ数日、朝になると少しだけ気分が悪い。

匂いに敏感になった気もするし、以前よりも疲れやすい。

「少し、疲れやすいような気はいたしますが……」

「医師を呼ぼう」

「大袈裟でございますよ。きっと、夜更かしが過ぎたせいです」

「誰のせいだと思っている」

景炎が、わずかに口角を上げる。

「……殿下の、せいでしょうか」

ぽつりと呟くと、彼は満足そうに目を細めた。

「ならば責任を取らねばな」

そのやりとりが、妙にこそばゆくて、蘭珠は笑ってしまった。

まさか――この時、すでに彼女の腹に、新しい命が宿っていたことも。

その命が、後に帝都を揺るがす争いの火種となることも。

そして、北の空の向こうで、ひとりの女が静かに笑っていることも、まだ知らなかった。

敵国の王子の愛妾でありながら、

その美貌ひとつで戦の行方を左右し、「傾国の美女」と呼ばれる女――雪瓔の存在を。

蘭珠がそれを知るのは、景炎が北へと旅立ったずっと後のことになる。

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  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   最終話 帰る場所のその先

    それから、季節が一つ巡った。王都を覆っていた火災の痕跡は少しずつ消え、焼け落ちた家々の跡には新しい屋根が並び始めていた。反乱の後始末も進み、景衡や陸曜に関わった者たちの処分も、ようやく一段落しつつある。父帝は病に伏したままだったが、景炎は実質的に国政の多くを担うようになっていた。いずれ皇位を継ぐことになる。その覚悟も、以前よりはっきりしている。ただし、後継ぎの問題だけはまだ答えが出ていなかった。雪瓔から受けた毒の影響がどこまで残っているのか、侍医にも断言できない。景炎自身に子ができる可能性を捨てず治療を続ける一方、万一に備えて傍系の皇族から若い子弟を何人か宮中へ招き、学問や政を学ばせることも始めていた。誰か一人をすぐ後継ぎと決めるためではない。皇位を継ぐに足る者がいるのか、時間をかけて見極めるためだった。そしてもう一つ。国境からは、定期的に報告が届いている。景炎が送り込んだ役人からのものだ。楚凌の軍の動き。蒼隼国との境の状況。役人たちの働き。民の様子。報告は細かかった。ある日の午後。景炎はその一通へ目を通しながら、眉を寄せた。――楚凌将軍、本日も城下へ出向き、農民から直接水路についての訴えを聞く。――蘭珠夫人も同行し、女性たちから冬支度について相談を受ける。――夫人の提案により、出産を控えた女性へ共同で布や薬草を融通する仕組みを試験的に始める。景炎はそこで紙を止めた。「……監視の報告なのか、これは」控えていた側近が咳払いをする。「現地の状況報告でもございますので」「分かっている」さらに読む。――夫妻は民からの評判もよく、将軍への信頼は現在のところ揺るぎなし。景炎の目が細くなった。信望が集まりすぎるのも困る。そう思う一方で。問題を起こしていないなら、それに越したことはない。景炎は書状を閉じた。「引き続き見ておけ」「はっ」「ただし、余計な手出しはするな」「承知いたしました」側近が下がる。景炎は一人になった部屋で、少しだけ窓の外を見た。蘭珠が王都を去ってから、会ってはいない。時折、国境から届く報告の中にその名がある。元気らしい。それでいい。そう思えるようになるまで、少し時間がかかった。それでも今は、以前ほど胸が痛まなくなっている。完全に消えたわけではない。消える必要もないのだろ

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   67. 帰る場所

    蘭珠が王都を発ったのは、それからしばらく経ってからだった。侍医がようやく旅を許し、赤子の体調も安定した頃を見計らっての出立だった。道中はできるだけ無理のない日程が組まれ、景炎の命で護衛もつけられた。紙問屋の主人や芳玉、周蘭に見送られた時には、思っていた以上に胸がいっぱいになった。門番の家はもうない。王都にも、自分が戻る家は残っていない。それでも不思議と、不安よりも前へ進む気持ちの方が強かった。行く先には楚凌がいる。それだけで十分だった。◇◇◇国境の城では、朝から役人たちが慌ただしく出入りしていた。景衡の反乱が終わったとはいえ、片づけなければならないことはいくらでもある。景衡や陸曜と繋がっていた役人の処分、兵の再編、倉庫の確認、民への説明、蒼隼国との境を守るための配置。楚凌は書状へ目を通しながら、深く息を吐いた。「こちらは?」「東側の村からです。反乱の際に徴発された穀物について、補償を求めております」「記録を確認しろ。景衡側が勝手に持ち出したものなら、城の備蓄から補う」「承知いたしました」役人が頭を下げて退出する。入れ替わるように別の兵が入ってきた。「将軍」「何だ」「南側の見張り台から報告です。蒼隼国側に大きな動きはございません」「引き続き警戒を」「はっ」兵が去る。ようやく静かになった部屋で、楚凌は椅子へ背を預けた。傷はかなり癒えている。背中の火傷はまだ引き攣ることがあり、肩も長く剣を振れば痛むだろう。それでも、寝台から起き上がれなかった頃に比べればずっとましだった。将軍職へも正式に戻った。景炎から届いた書状には、この土地の統治を任せるという命も記されていた。皮肉なものだと思う。少し前まで門番だった男が、今は城を預かっている。しかも、かつて自分と景炎が戦って奪い取った土地を。人生とは、分からないものだ。ただ。一つだけ、どうしても気にかかることがあった。蘭珠。手紙は送った。返事も届いている。身体が回復したら、自分のもとへ向かうつもりだと。その文を読んだ時は、何度も読み返した。本当に来るのか。王都を離れて。自分のもとへ。嬉しかった。同時に、申し訳なさもあった。本来なら、自分が迎えに行くべきなのだ。妻と、生まれたばかりの子を迎えに。けれど今、この土地を簡単に離れることはできない

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   66. 別れ

    紙問屋の主人に案内され、景炎が部屋へ入ってきた。以前より少し痩せたように見えた。反乱の夜から、まともに休めていないのだろう。顔には疲労が残り、目の下には薄い影が落ちている。それでも衣は整えられ、立ち姿には皇太子としての威厳があった。蘭珠は赤子を抱いたまま、静かに頭を下げた。「殿下」「……蘭珠」久しぶりに名前を呼ばれた。その声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。かつては、その声を待っていた。自分だけを見てほしいと願い、名前を呼ばれるだけで嬉しかった時もある。けれど今、その懐かしさが蘭珠の決意を揺らすことはなかった。芳玉と周蘭は少し離れた場所へ下がっている。完全に二人きりではないが、会話が聞こえない程度には距離を取ってくれていた。景炎は何か言おうとしたものの、すぐには口を開かなかった。視線が、蘭珠の腕の中へ落ちる。赤子は眠っている。景炎の表情が変わった。ほんのわずかだったが、蘭珠には分かった。「……この子か」低い声だった。蘭珠は赤子を見下ろし、頷いた。「はい」景炎はその場から動かなかった。もっと近くへ来てもよいはずなのに、一定の距離を保ったまま赤子を見ている。まるで、近づくことさえ許されるのか分からないようだった。蘭珠はその姿に、少し胸が痛んだ。この子が景炎の血を引いていることは変わらない。どれほど事情があったとしても、その事実だけは消せない。「男の子だと聞いた」「はい」「早く生まれたとも」「一月ほど早かったそうです。ですが、侍医からは順調だと言われております」「そうか」景炎は小さく息を吐いた。安心したようにも見えた。しばらくの間、二人とも何も言わなかった。

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   65. 会うということ

    紙問屋の屋敷へ宮中から使いが来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。蘭珠はちょうど赤子へ乳を与え終え、周蘭に抱いてもらったところだった。産後の身体はまだ万全ではないものの、少しずつ起きていられる時間も長くなっている。足の傷も塞がり始め、侍医からは、もうしばらくすれば短い距離なら歩いてもよいと言われていた。芳玉は机に向かい、何やら書きつけている。「また書いているんですか」蘭珠が尋ねると、芳玉は慌てて紙を伏せた。「まだ取材の整理です」「見せてください」「完成したら」「それでは何を書かれているのか分からないではありませんか」「だからいいんです」芳玉が笑うと、そのやり取りを聞いていた周蘭も小さく笑った。こんな穏やかな午後が戻ってくるとは、少し前まで想像もできなかった。王都では反乱が起き、火の手が上がり、自分も死にかけた。それでも今は、赤子の寝息を聞きながら誰かと笑うことができている。だが、部屋の外から近づいてきた足音が、その空気を変えた。「蘭珠様」紙問屋の主人の声だった。「宮城より使者がお見えです」蘭珠の表情が引き締まる。「分かりました。お通ししてください」しばらくして、一人の侍従が戸口まで案内されてきた。蘭珠は衣を整え、軽く頭を下げる。「何かございましたか」「皇太子殿下より、お言葉を預かっております」景炎。その名を聞いただけで、胸の奥に小さな緊張が走った。以前ならもっと大きく心が揺れただろうが、今は違う。それでも、何も感じないわけではなかった。「伺います」侍従は深く頭を下げた。「殿下は、蘭珠様が王都を発たれる前に、一度お会いしたいと仰せです」蘭珠は言葉を失った。芳玉も少し離れたところで動きを止め、周蘭は赤子を抱いたまま静かに蘭珠を見ていた。「……私に?」「はい」蘭珠は無意識に指先を握った。景炎が自分に会いたいと思うこと自体は、理解できないことではない。けれど、侍従の言葉には続きがあった。「ただし、殿下は蘭珠様を宮城へお呼びになるおつもりではございません」蘭珠は顔を上げた。「どういうことですか」「蘭珠様がお会いになってもよいと仰るならば、殿下ご自身がこちらへお越しになるとのことです」蘭珠は思わず黙り込んだ。景炎がここへ来る。自分を呼びつけるのではなく、しかも会うかどうかを先に尋ねている。以前の景炎

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   64. 継ぐ者

    皇帝の寝所には、薬草の匂いが満ちていた。厚い帳の向こうで灯が揺れ、部屋の中には低い咳の音だけが響いている。景炎が入ると、皇帝は枕へ身体を預けたまま、ゆっくりと目を開いた。以前より、ずっと痩せていた。頬は落ち、声にも力がない。それでも、息子を見る目だけはまだ鋭かった。「……来たか」「父上」景炎は寝台のそばへ進み、膝をついた。皇帝はしばらく何も言わず、景炎の顔を見つめていた。「王都は」「落ち着きつつあります。火災もほぼ鎮火し、内応者の捕縛も進んでおります」「景衡は」「捕らえました」皇帝の目がわずかに細くなる。「生きているのか」「はい。勝手には処断せず、王都へ護送させます。陸曜や蒼隼国との繋がりも含め、まず反乱の全容を明らかにするつもりです」皇帝は短く息を吐いた。安堵したのか、失望したのか、景炎には分からなかった。「……あれは昔から、弱い子だった」ぽつりと皇帝が言う。景炎は黙って聞いた。「弱い者ほど、強い言葉に縋る。景衡は自分で皇位を欲したというより、欲しいと思い込まされたのかもしれぬ」「それでも、反乱を起こした責任は消えません」「分かっている」皇帝は目を閉じた。「だから裁かねばならぬ。弟であってもな」その言葉に、景炎は小さく頭を下げた。「はい」しばらく沈黙が続いた。やがて皇帝がもう一度目を開く。「陸曜を討ったのは、楚凌だそうだな」「はい」「景衡を捕らえたのも」「楚凌です」「門番へ落とした男が、国を救ったか」その言葉に、景炎の胸がわずかに痛んだ。「……私の判断が誤っておりました」「雪瓔のことか」

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   63. 手放すということ

    蘭珠の返事が届いたのは、その日の夕刻だった。正殿にはまだ多くの文書が積み上げられていたが、反乱直後の切迫した慌ただしさは少しずつ薄れつつあった。各地から届く報告も、火急のものより後始末に関するものが増え、兵の再配置や焼けた家々への支援、捕らえた内応者の取り調べなど、国を元の形へ戻すための仕事へ変わり始めている。景炎は、景衡が統治していた国境の土地について書かれた報告書へ目を通していた。楚凌はまだ傷が癒えておらず、医師から安静を命じられている。それでも寝台の上から必要な指示を出し、城兵の配置を整え、景衡や陸曜と繋がっていた役人の洗い出しを始めているという。あの男らしい。景炎はそう思いながら書状を机へ置いた。「殿下」控えていた文官が声をかける。「蘭珠様から、お返事が届いております」景炎の手が止まった。ほんの一瞬だったが、その場にいた者の何人かは気づいたかもしれない。「……申せ」できるだけ平静な声で答える。文官は深く頭を下げた。「蘭珠様は、楚凌将軍のもとへ向かわれるとのことです」景炎は何も言わなかった。「ただし、すぐにではございません。産後のお身体が戻り、お子様が旅に耐えられるようになったのち、国境へ向かわれると」胸の奥へ、重いものが沈んだ。王都を離れる。蘭珠が。子を連れて。その可能性を考えていなかったわけではない。それでも景炎は、心のどこかで別の答えを期待していた。楚凌は国境へ残る。すぐには王都へ帰ってこない。蘭珠は産後で、生まれた子もまだ小さい。王都には宮中の侍医がいて、紙問屋には景炎から援助を出している。近衛も置き、母子に必要なものはすべて整えさせていた。だから。蘭珠が王都へ残る道を選ぶこともあるのではないか。そう思っていた。あるいは、そう願っていた。

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   2. 出陣の朝、約束の口づけ

    「……本当に、行ってしまわれるのですか」障子越しに差し込む朝の光が、白い帳を淡く透かしていた。 寝台の上で身を起こした蘭珠は、自分の声が震えているのを自覚する。部屋の中央で甲冑を締め直していた景炎が、手を止めて振り向いた。 漆黒の髪を高く結い上げ、その上から金の冠を載せている。いつもより厳しい横顔。それでも、蘭珠を見ると、ふっと表情が和らいだ。「行かねばならぬ」短く告げられた言葉は冷たく聞こえて、けれど、その瞳には迷いが滲んでいた。蘭珠は掛け布を握りしめたまま、そっとお腹に手を添える。 まだ膨らみと呼ぶにはほど遠い。だが、医官は確かに言った。――ご懐妊、おめでとうござい

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   12. 楚凌の誓い

    門番宿舎で暮らし始めて、一ヶ月が経った。華やかな宮中は、もう遠い。 朱塗りの柱も、香の煙も、絹の衣擦れもない。 ここにあるのは、土と木の匂いと、夕方になると肌にまとわりつく湿気だけだ。蘭珠は、まだ慣れずにいた。慣れないのは、家の狭さでも、貧しさでもない。 慣れないのは、自分の立ち位置だった。夫と呼ばれる男が隣にいる。 けれど楚凌は、蘭珠を「妻」として扱うより、「主の妻」として扱っている。 声も、視線も、距離も、慎重に保たれていた。妊娠初期のつわりは思った以上に重い。 朝、粥の湯気を嗅いだだけで胸が波立つ日もある。そんな日々を支えているのが、通いの下働きだった。名は周

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   10. はじめての家事、はじめての肉饅頭

    楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   5. 夫の目が、私を映さない

    景炎が凱旋して三日。蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。礼服姿の景炎が入ってきた。その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。彼女はやはり美しい。だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。空気が揺れるような、ひどく静かな圧。蘭珠は彼女と会うのは初めて。しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。

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